BINTA

BOOTSFIGHT IN THE AIR

あしたのジョー(1970年)

1期、全 79 話。
流浪の無法者、喧嘩好きの少年・矢吹丈が、東京のドヤ街で出会った元ボクサーの飲んだくれ親父・丹下段平に見初められ、ボクシングのイロハを叩き込まれ、宿命のライバルとの出会いなどを経て、紆余曲折しつつその道をひたすら突き進んでいく話。
ジョー&丹下の出会いに始まり、ドヤ街騒動編、少年院編、プロデビュー編、VS 力石編、憔悴迷走編、ドサ回り編、再起 VS カーロス編、という風に場所やライバルを替えながらジョーや周辺人物の成長と変化が描かれる。


本作を原案としたアニメ「メガロボクス」の1期を先日観て感銘を受け、それをきっかけに原案の方もちゃんと知っておこうということで観た。
放送当時は生まれていなかったし再放送も観たおぼえはないが、自分も 70 年代の生まれなので過去人生においてこの作品のタイトルや「矢吹丈」や「丹下段平」のキャラクターに接することも少しはあった。が、いずれの際にも深く興味を持つことも好奇心がわくこともなく、この 2021 年に至るまで作品の詳細をほぼ全く知らないままで来た。
スポーツ嫌いだったし、絵柄が当然の如く古臭いし、尾藤イサオの歌う主題歌もギャグとして耳にすることしかなかったし、数年前までアニメ趣味などなかったし、大昔のアニメなんて興味の対象になりえなかった。

しかしイデオンファーストガンダムが心のベストテン上位に鎮座するようになった三十代以降、そして現在の趣味趣向、さらに「メガロボクス」の作品性を考えると、この作品だって観ておくべきだろう、そして今がまさにその好機だろうと思った。


感想、まず簡潔に言うなら、よかった。すばらしかった。すごかった。
メガロボクス」で言うところの、『本物』だと思った。感銘を受けたということで言えば、「メガロボクス」よりも深く強く、強烈だった。「メガロボクス」ももちろん良いが、先日観たばかりのそれの印象が薄れてしまうほど強かった。
短期間に 79 話を一気に観たので、老いた貧弱脳内 HDD では前に入れた十話程度のものなどはすぐに消えてしまうということもある。

全 79 話。ウィキペディアの各話放送リストによると、放送期間は実に1年半。1年 53 週+半年 26 週の 79 週。この当時は「番組改編期」とか半期とか四半期という区切りがあったかどうか知らないが、そういうのに当たる時期に特別編成により休止という週もなく、全話毎週欠かさず放送されたらしい。年末年始だろうがお構いなしに。一話も「落として」いないのもすごい。いや、当時なら当然だったのか。今も当然であるべきだが。
一番の山場である力石戦の決着を放送丸一年の終わりに持ってきており、途中時間稼ぎっぽいような総集編風の回もありながらも、放送内容のスケジュール調整もしっかり計画されていたらしいことが窺える。
1年半で終わっているのは、原作に追いついてしまい、やりようがなくなったかららしい。

話や全体概要としてはしっかりした印象ではあるものの、作画面には昭和作品らしいオンボロポイントが散見された。例えば連続したシーンの中でもカットによって丹下段平の眼帯の左右が変わったり、キャラの立ち位置がテレポートしたり、といった設定や仕上がりの確認不足と思われるもの。輪郭線のミスが修正されていなかったり、色指定が不十分でジョーの服の色がパカパカ変わったり、色抜けがあったり、酷い時には修正指定の指示書きが入ったままになっていたり。
近年のデジタル管理され、多重チェックのシステムも整っていると思われる制作体制でできあがるアニメではまず観られないそういったミスは、もちろん本来は無いに越したことはないが、今観るとむしろ味にも感じられ、本編とは別におもしろい点だった。
そういう点に注視するのもまたたのしいが、後半話数になるにつれ恐らく後年リマスタリングや次世代メディア向けに修正が施されたらしきクリアな映像になっていき、それはフィルム揺れやチリやホコリの影も無くて観やすいけれども、その反面前述した味が失せ、若干面白味にも欠けるような感じがした。


以上は主に作品のガワの感想。
中身の感想は、どう書いたものか。まー軽く適当に。雑感形式で。


矢吹丈
根は軽薄な明るい奴だったのが意外だった。
最後のカーロス戦、平然と戦っていたが、テンプル打ち PTSD 的症状がどのタイミングで克服できたのか謎。

丹下段平
すげえ泣く。そして健気で一途。ルックスに似合わずかわいい。

力石徹
メガロボクスの「勇利」よりも存在感の大きな、実質的にこの作品全体のテーマとも言えるキャラクターだと知った。「あしたのジョー」と題しつつ、その明日のジョーが目指すのは永遠に届かない力石なんだなー、などと。
それが顕著だったのがエンディング 。40 話から使われる「力石徹のテーマ」。50 話あたりで出番を終えるキャラクターの歌が最終話まで平然と使われる。しかも最終話、最後の最後、「あしたのジョー 完」の文字のあとに力石の顔アップ、ドーンと来ていつもの ED なので笑ってしまった。

マンモス西
すげえ泣く。そして、鑑別所の牢名主 → ヘタレの舎弟 → 貧弱巨漢ボクサー → 気の良い商店店員、とキャラクター変わりまくり。東京暮らしで次第に関西弁が薄れていくのも仕事が細かいと思った。

ジョーの取巻き、悪ガキたち。
たろう、キノコ、女児サチほか。恐らく最も現代的放送倫理に適合しないキャラクターたちと思われる。だからこそ「メガロボクス」ではキノコ+サチがフュージョン融合したような「サチオ」という男子のみになったのだろう。
最終回、旅立っていなくなったジョーを想って泪橋で泣きながら絶叫するサチの姿は、「フランダースの犬」最終回で町外れの橋の上でネロの名を叫ぶアロアとダブって見えた。あっちの方が後発だっけか。

白木葉子
ヒロイン? いや、正ヒロインは拳キチのおっちゃんか。謎。

のりこ。
町の娘。ヒロイン?その2。この時代、庶民的娘っこの役名といえばこれよね。ウィキペディアによると漢字も「紀子」らしいし。ひとり小津な世界。

カーロス・リベラ
ラテン系ノリのわりにいまいちキャラが薄い。マネージャーのロバートとカタコトキャラがカブっているからか。他が濃すぎるのか。

牧場の娘、ユリ。
あの野沢雅子がまともな女性キャラクターの声をやっていて驚いた。


そのた

丹下や西がすげえ泣くと書いたけども、同じくらい自分もそこそこ泣いた。「本物」の作品はさすが、軽々しいお涙頂戴なんかじゃなく、暑苦しいほど熱い言葉と芝居で泣かせてくる。もちろん力石関連でもそれなりに泣けたけども、悲しみよりもジョーの空虚感とかそれについて為すすべを持たない周囲の人々のやりきれなさに泣けた。

矢吹丈というのは最強主人公ではない。なかった。「俺TUEEE」などではない。黒星にも甘んじる。常に強敵を求めて、そいつらとの試合のたびにボロボロになる。楽勝試合はワンカットで省略。ここぞの試合はいつもダウンを繰り返し、ギリギリからの逆転。そういうズタボロ型のヒーロー像なんだな。
いやしかし最後のカーロス戦の結末はもやっとした。

あと、メガロボクスにおける「ギアレスジョー」というのは、こちらでの「両手ブラリ戦法」の現代版アレンジなんだなと理解。


まだまだあった気がするけど、放送から半世紀経って隅々まで語り尽くされている作品の内容について今更どうこう言ってもな。と。
以上。2も続けて観る予定。