BINTA

BOOTSFIGHT IN THE AIR

NOMAD メガロボクス2

全 13 話。
第1回メガロボクス決勝大会から7年、恩師南部は他界、チーム番外地は解散、ジョーは「NOMAD」を名乗って素性を伏せ再び地下の闇ボクシングに戻り、痛み止めの薬を常用しながら放浪する暮らしに落ちぶれていた。
何も語らず過去から逃げ続けるジョーが、放浪の中で新たな出会いを重ねてしょっぱい過去と薬物中毒を克服し、散り散りになっていた番外地の子供たちとも再会、もう一度メガロボクスの表舞台に上がるまでの話。

原案作品略して原作の「あしたのジョー」になぞらえるならば、1期が力石戦決着まで、今作はその後~ホセ・メンドーサとの最終対決までということになる、のか。つまり1期がアニメ「あしたのジョー」1作目で、今作は「あしたのジョー2」にそれぞれそのまま当てはまる、と解釈できなくもない。だいぶ乱暴な解釈。

アニメ「あしたのジョー」での力石ロス後の矢吹は一時ドサ回りの野良ボクシング興行に参加しており、恐らくこの「メガロボクス」全体の話の素地はそのドサ回り編がベースだと思われる。
この2期で唐突に出てくる「痛み止めの薬服用による薬物中毒」というのは、原作における「テンプルが打てない(無理に打つと嘔吐でキラめく)」という PTSD 的症状を擬似的に盛り込んだものかと。
それ必要? 恐らく簡単にはメジャーのメガロボクスに戻れない原因が幾つか必要で、そのひとつとして考案されたものなのではないか。
なんで簡単に戻ってはいけないのか。1期での勝利後、そのままチャンピオンとして防衛戦やなんらか試合を繰り返すばかりのボクシング話をやるのでは、この作品をやる意味がない、とかそういうことだろう。
この作品の意味、テーマって? それは観て感じられることがすべて。そこらへん具体的に話を読み解き考え始めると書きたいことがわからなくなってくるので、以上で雑に省略。

全体の流れは、序章=あのギアレスジョーは今 ~ チーフ&移民コミュニティ編 ~ チーム番外地再会編 ~ 最終戦マック編、という感じでそれぞれジョーが戦う相手は異なり、エピソードごとにキーキャラも変わっていく。
ジョーの心象のイメージにはバイクで轢ねた狼*1、人々を繋ぐモチーフにはハチドリの民話があり、毎回具体的なことを語る代わりにそれらが挿入されて、何を言わんとしているかが抽象的に表現される。また ED テーマにもなっているラテン民謡調の歌も時折劇中で使われ、ED の訳詞で分かる内容も含めて考えさせるものになっていた。

OP は渋いルーツロック風のインストで、1期で劇中アクセントになっていたヒップホップ的要素はほぼ無く、明るさを添えていた子供たちは年月を経て性格が歪んだりむくれたりして、雰囲気は暗く重く、絵は相変わらず昭和アニメテイストを湛えたレトロ調。1期よりもさらに売れる要素をガン無視したような作風で、少なくとも子供向けではないアニメであることは間違いない。

でそれ結局どうだったのか。
おもしろかった。上に挙げた作りや手触りみたいな部分も含めて。売れる要素を無視して排除しているということは、やりたいこととか言いたいことがはっきりしていてそれを押し通してきっちり作り上げているっていうことで、話がわかりやすいかどうか、完全に理解できるかどうか、主題に共感できるかどうか、見た目に刺激的に楽しめるかどうかは別として、作品の出来としておもしろい。
単品で満点かどうかと問われるとそうとは言い切れないが、「メガロボクス」の続編としては十分良かったと思う。納得できるものだった。

あらゆる部分に特色はあってそれぞれクセも強いけども、どれもやりすぎなところがないのがよかった。ジョーが壊れすぎず、再起しすぎず、チーフやマックのキャラが強すぎず、サチオら子供たちが腐りすぎず、またジョーを許す過程がたやすすぎず、南部のおっさんやチーフを引きずりすぎず、などなど。
まあそういうのは視聴者個々の感覚で異なるとは思う。実際正直ハチドリ云々押しは若干しつこいと感じたところがなくはない。ジョーもだんまりが過ぎる、細谷なんか言えやぐらい思ったところもあった。後半登場した科学者・佐久間の発言には毎回腹立たしく思った。
が、だいたいは絵と歌の叙情性で空気に流されて気にならなくなっていたので、これはもう演出が良かった証拠なんじゃあないかと。

ジョーはパンチドランカー&ボクサーとしての適齢期を過ぎて最後もあんな試合結果で、もう3期はないかな。狼は死んだ*2。旅は終わった。孤高の白い灰に燃え尽きるような結末は選ばなかった。
これで語り尽くされたのかな。ハチドリはどこいったんかな。



※記事投稿後、スタッフトークショー配信閲覧し以下注釈追加。

*1:※正しくは「犬」だそうだ。

*2:犬、な。しかも死んでないって。